日大アメフト部の悪質タックルが問題になっていた時期に、ハンドボールの肘打ちが悪質なラフプレーとして同じように報道されました。しかしハンドボールの方は、単にしつこい相手を振り払っただけです。正しさの判断は、官公庁の公平な契約にも必要です。
アメフト部の悪質タックルが批判された理由
2018(平成30)年5月6日、アメリカンフットボールの日本大学フェニックスと関西学院大学ファイターズの試合で、日本大学の選手が不必要なタックルを行い、関西学院大学の選手にケガを負わせました。テレビで何度もタックルの場面が放映されたので、記憶に残っている人も多いでしょう。
関西学院大学の選手が、後ろを向いてプレーしていないときに、日本大学の選手がいきなり背後からタックルしたのです。関西学院大学の選手は、無防備な状態で不意にタックルされケガをしました。これは悪質なラフプレーで極めて危険な行為です。多くの批判を浴び、日本大学の選手は追い詰められ、記者会見まで開くことになりました。監督から、相手をつぶしてこい、と言われて、危険な行為をしたことを涙ながらに謝罪しました。日本大学の選手は、レギュラーポジションを掴もうと必死だったのです。
この日本大学の選手のラフプレーは、相手の選手が無防備な状態にもかかわらず背後からタックルしたものです。こうなると悪質な暴力に近い行為になります。もはやスポーツとはいえません。当然ながら日本大学の選手だけでなく、監督やコーチも批判されました。
ハンドボールの肘打ち問題も同じなのか?
同じ頃、2018(平成30)年6月10日、インターハイ大阪府予選のハンドボール男子決勝戦で、大阪体育大学浪商高校(浪商)と桃山学院高校(桃高)の対戦がありました。その中で、浪商の選手が、桃高の選手を肘打ちする場面がありました。yutubeの動画でも肘打ちする場面が流れています。週間誌がこの場面を記事にし、日大のタックル問題と同じように悪質だと報道しました。
私は、インターネットで日大のタックル問題の記事を読んでいて、関連記事として偶然見つけました。またかと思いつつ、肘打ちする場面の動画を繰り返し確認しました。
しかし、どう見てもハンドボールの肘打ちは、悪質なラフプレーには見えませんでした。肘打ちを行う直前の様子を見ると、相手の選手がしつこくつきまとい、プレーを邪魔していたのです。肘打ちをした選手は、しつこくつきまとう選手を振り払おうとして、プレイの中で結果的に肘打ちのようになっただけです。
ハンドボールのように、敵と味方が入り乱れてプレーするスポーツでは、相手選手を妨害すること、相手選手を振り払うことは、通常のプレーの中のテクニックです。しつこくつきまとう相手に対しては、自分の肘を張り、邪魔されないように自分のプレーを守るのは自然なことです。私は高校時代に体育の授業で、毎週ハンドボールをしてました。しつこく絡んで妨害してくる相手に対して、肘打ちして振り払うのは当然です。肘打ちを喰らわないように相手を邪魔するテクニックこそが正当なのです。
日本大学のタックル問題と、ハンドボールの肘打ちを同じように捉え、悪質なラフプレーと考えてしまう記者に対して、恐ろしさを感じました。マスメディアが、何が正しいのか、判断できる目を持っていないのです。日本大学のタックル問題は、無防備な相手を不意にタックルしたことです。ハンドボールの肘打ちは、プレーを邪魔する相手を振り払ったものです。相手が自分に対して攻撃しているかどうかです。正当防衛のように考えるとわかりやすいかもしれません。攻撃されれば防御するのが当然です。この違いを正しく認識できることが重要です。
マスメディアの役割は、世の中のことを正しく伝えることです。しかし、正しい判断ができない一部の記者が、マスメディアを使い、偏った内容の記事を広めることに怖さを感じました。
正しさを判断できる心を育む環境とは
「正しさ」は、主観的な感情です。育った環境や時代背景によって、正しさの判断基準は常に変わります。その時代にあった正しさがあります。
ただハッキリ言って、正しさを判断できる人は、幼い頃からたくさん遊び、いろいろな友人と会話したり喧嘩してきた人たちです。他人と触れ合うことでのみ、相手の気持ちを理解し、正しさを判断できる心が育まれるのです。一流大学に入るために、幼い頃から勉強ばかりしてきた人は、残念ながら正しさを判断できません。
最近は、一流の大学を卒業した高学歴な人が、官僚になったり、マスメディアに登場することが多いです。高学歴な一部の人たちは、相手の感情を傷つけることを平然とテレビで話します。官僚やジャーナリスト、マスメディアが正しく判断できない世の中は、かなり怖いです。
現在はインターネットが普及し、誰もが世界中の情報を持てる社会です。そろそろマスメディアも大企業も官公庁も、高学歴な人を幹部職員とする人事制度は廃止すべきです。特に官公庁などは、正しさを判断できる人の存在が最も重要です。
官公庁における公平な契約とは何か、3社による見積もり合わせこそが公平
官公庁で長い間契約実務を担当していると、公平な契約とは何か、悩むことがあります。一般競争入札であれば、誰もが入札に参加でき、価格競争に勝つことができれば契約を獲得できます。参加機会が公平であれば問題ないと考えることもできます。
しかし入札を実施して、いつも同じ大手企業が落札してしまうと、本当に価格競争が正しいのか疑問になるのです。売上の大きい大手企業であれば、価格を安くすることができます。場合によっては原価に近い金額で入札できるでしょう。そうなれば中小企業は競争に勝てません。いつも大手企業に契約を取られてしまいます。入札の結果、大手企業だけに国民の税金が流れるのは、本当に公平と言えるのでしょうか?
たしかに競争機会が確保されていれば公平と言えます。しかし実際に契約を獲得できないならば公平と言えないのではないでしょうか?
2020年頃から広く普及している電子入札やオープンカウンター方式の見積競争など、価格競争一辺倒の契約制度は、本当に公平と言えるのでしょうか?
実は昔の契約制度は、公平性を重要視していたのです。電子入札やオープンカウンター方式の価格競争が導入される前は、3社による見積もり合わせが一般的でした。
価格競争による一般競争入札は、契約金額の大きなものだけに限定されていました。金額の大きなものは価格競争だけで契約の相手方を決めていたのです。しかし一定金額以下の小さな契約は、見積もり合わせにより、公平性を考慮して競争が実施されていたのです。
昔の見積もり合わせは、3社から見積書を取り寄せて、3社のみで価格を競争するものでした。そして3社を選ぶ際は、公平性に重点を置いていたのです。
例えば一般競争入札で落札した会社は、すぐ後に実施する見積もり合わせに参加させませんでした。すでに大きな契約を獲得している企業は除外して、まだ契約を獲得していない企業に対して契約のチャンスを与えていたのです。ここが契約実務担当者の「公平性の見せ所」でした。正しい考え方によって、昔の契約実務担当者は、公平な契約を意識していたのです。中小企業の営業担当者が、バランスよく契約を獲得できるよう工夫していました。
そもそもが金額の小さい契約は、見積もり合わせという手法が法律に定められています。そして、この見積もり合わせを行う目的は、事務の簡素化と、契約の公平性だったのです。これこそが正しい考え方でした。電子入札などが導入され、価格競争のみになった官公庁の契約制度は公平とはいえません。
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